世間話

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断裂

世間は今年初の三連休だとかいって、ハタチの若者以外も浮かれているというのに、
私は今年初の土曜出勤なのだ。
正月休み明けの大忙しを切り抜け、次の連休前だからヒマだろうと高をくくっていたが、
なんだかんだと仕事は増えてけっこうハードな一日になった。

それでもなんとか筋トレの時間を捻出して、初腕立て伏せしていると、
店長の奥さんが「忙しかったねえ」とおやつを持ってきてくれた。
ミスター某のドーナツだ。
カロリー消費中の追いカロリーだが、こいつはありがたい。

ミスター某のドーナツは南米の昆虫に匹敵するほどの種類があるが、
出てきたのは茶色くてやや硬めで、上がぐるり一周ひび割れになっているやつだ。
ホントは上半分にクリームが乗っていたのを誰かが齧って、
底の部分だけ残っているように見えるやつ、と言って通じるだろうか。

とはいえどんなドーナツでもたいていドーナツはおいしい。
ドーナツを食べる作業の最初の一歩は、その輪を断ち切ることだ。
ガブリと齧りつく。
吊り橋一本分ぐらいがまだギリギリつながっている。
ふふふ、加減をしてちょっとおちょぼ口で齧りついたのだ。

たとえ糸一本分であろうとも、輪が繋がっているうちはドーナツだ。
それが切れた瞬間、その食べ物は『ドーナツだったもの』に変わる。
だってドーナツ状じゃなくなるのだから。


ドーナツはドーナツを呼ぶとでもいうのだろうか。
休みだったN岡が差し入れを持って表敬訪問だ。
手に持っているのはミスター某のドーナツケース。
ダブったから迷惑だなんて思わない。
ドーナツは、いつでもどんなのでもおいしいのだから。

私に回ってきたのは、チョコのかかったほどけない靴紐みたいなやつと、
トレーラーのタイヤみたいなやつだ。
ホントは“ポンデリング”と“フレンチクルーラー”だと知っている。
逆に言うと、私が知っているぐらい有名なのだ。

追い追いカロリーをしては筋トレの意味が無くなると思い、これは持って帰った。
二個あるのだからちづると一個ずつだ。
が、何度も言うように、ドーナツはどんなのでもおいしい。
二種類あるなら二種類食べたい。
それはちづるも同意見だった。

二個のドーナツを半分に切る。
と言うことは、さっきの説によるとどちらもドーナツではなくなるということだ。
二個もあるのにどちらもドーナツでなくなる?
そんな哀れな話があるだろうか。

そうだ、その二個を合体させればいい。
ドーナツのあしゅら男爵だ。
そうすればドーナツ状を作ることができるから、一旦はドーナツを楽しめる。
おお、ステキなアイデアだ。

が、ちづるはナイフを出してくるのがめんどくさかったのか、
二つのドーナツを手でちぎった。
それはもう、超人ハルクが太い鎖を引きちぎるかのような光景だった。
そんなわけで、夕食のデザートに私はドーナツの残骸を二個食べた。





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検索してみた
ちょうど一週間の正月休みが終わった。
七日ぶりの会社は、毎日いるとわからないような変化があった。
そう、私の体重のように。


裏庭の二個の植木鉢。
一つには山東菜とミズナ、もう一つにはパセリとレタスが植えてある。
これが、ぐいいっと大きく育っていた。
取った雑草をねじ込んで、その上に少しだけ土を入れただけなので成長が悪かったのに、
更に一度も水をやっていないのに、もう食べられるぐらいに大きくなっていた。

計画的変化もあった
去年使い切ったメモ用のボンドを乾燥させていたのだ。
なにしろ業務用なので3キロも入るボトルで、洗うよりも乾かしてはがす方がきれいになる。
一週間乾かしたのでうまいことパリパリになっていた。
以前もネタにしたことがあるが、これをはがすのがとても気持ちいいのだ。

気持ちいい~

これがそのボトルと、内側にへバリついていたボンド。
ボトルの内側はそれはもう美しいものだ。
なんにでも使えるようになった。
でも、前回のボトルのまったく使用しないままおいてあるのだ。


夕方になって気付いたこともある。
日が長くなっているのだ。
休み前は店のノボリを片づけるころにはほとんど真っ暗になっていたのに、
今では空がほんのり薄明るくなっている。
天の動きは、人間や社会や気候なんかに一切影響を受けないのだなあ。


仕事が終わったら居酒屋初めだ。
ここでも大きな変化があった。
スキンヘッド1号のメガネと自転車が変わっていた。
お年玉で……いや、還暦を過ぎていてそんなことはあるまい。

見れば、顔に大きな擦り傷ができている。
話によると、大みそかの朝目覚めたら体中が痛くてメガネがない。
玄関に行ってみると、スーパーで買った食品が置いてあり、
外へ出ると2メートルぐらい先にメガネが落ちていて、
更に5メートル先に自転車が乗り捨ててあったそうだ。

つまり、酔っぱらって転んだのだ。
みんなで笑うと怒る怒る。
あばらにひびが入っているので、痛くて自分は笑えないのだ。
笑いのお年玉をいただいたよ。





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もう使っちゃった
日本人よ、そろそろ卒業したらどうか。
なにってもちろん『おせち料理』のことだ。
1月3日の更新はおせち料理の悪口と決まっているのだ。

今年は、ちづるの実家も私の実家も例年とは少し変化があった。
まずちづる実家は、おせちを買うのをやめ、おせち風オードブルにしたそうだ。
それをいくつかの器に盛り分けて食卓に乗せた。
メインに鍋があったので、この小鉢がちょいとおつまみにとてもよかった。

私の実家では今年もおせちを買ったのだが、買う店を変えた。
今度のお店のは、真空パックやら個別包装やらのビニールが入っていないのがいい。
それとは別に、母が作る煮物が変わった。
いままで、たけのこやこんにゃくやゴボウやシイタケを別々の煮ものにしていたが、
今年からはひとまとめの煮ものにした。
手間が断然楽なうえに、こちらの方がおいしいではないか。


それにしても、やはり弟夫婦とわが夫婦で、二段のお重が半分残った。
残るのはいつも同じメンバーだ。
たつくり、なます、黒豆、きんとん、ゴボウ、かまぼこだ。
エビやブリ、焼き豚など動物性の物は売れ行きが良い。
同じゴボウでもアナゴ巻きの方は人気がある。
昆布巻きも芯に魚が入っていたので良いおつまみだった。

この喜ばれるものと残されるものの差はなにか。
まず、おいしいものはちょっとしか入っていない。
それに対し、残るようなものはたっぷり入っている。
おそらく、隙間にはどんどん残るものを詰め込んだに違いない。


おせちには二種類の意味がある。
縁起がいいことと、日持ちがすることだ。
言い換えれば、語呂合わせができる腐りにくいものってことだ。
これほど「おいしい」が二の次になっている料理があるだろうか。

黒豆やきんとんは、お菓子だ。
なますなど、酢の物は漬物だ。
たつくりは硬い。
かまぼこは飽きた。
えーと、あとはもうどうでもいいや。

と、私がどうでもいいやと思ったものたちこそ、
父や母やその他お年寄りたちが、
「これがなきゃあおせちじゃない」
というお正月感アイテムなのだ。


そこで提案だ。
おせちは一の重二の重をやめて、シルバー重ヤング重にしてもらえないか。
シルバー重には今まで通りの縁起よく味の濃い日持ちのする伝統料理。
そしてヤング重にはブタのショウガ焼き定食だ。
おっと、私の今の気持ちが出てしまった。

もちろん生姜焼きにはこだわらない。
天津飯でもカキフライでもカルビでもかまわない
なんだったら、ラーメンや牛丼の食券が入っていてもいい。
ともかく、飽きたのー!






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ところで彼はどこだ
『信じていれば夢は必ずかなう』というフレーズがある。
主に夢をかなえたスポーツ選手が使う。
この件について目くじらを立てないでやってほしい。
彼らは夢をかなえられるほどスポーツばっかりやってきた。
ほぼ、スポーツのことしか考えてきていないのだ。

信じていれば夢は必ずかなうのか。
残念ながらそんなことはない。
信じていたって努力しなければ夢はかなわない。
サッカー選手になりたいとコタツで信じていてもなれはしない。
とりあえずグラウンドに出るぐらいのことはしなくてはならない。

では、努力したら夢はかなうのか。
夢による。
その夢に制限がある場合は、どうしてもかなわない人が出てくる。
たとえば「小説家になりたい」という夢は、小説家だと名乗ればいいだけだ。
でも、サッカー選手になるには、チームに入れてもらわなければ無理だ。

チームは人数に限りがある。
だから、なりたい人全員がなれるわけではない。
同じように「横綱になりたい」とか「金メダルほしい」というのもほぼ無理だ。
この夢がかなうのは、努力した人の中でもごく一部の人だけだ。


ではいろんな夢がかなうかどうかを考えてみよう。

お金持ちになりたい。
これはかなう可能性が高い。
いくらあったらお金持ちだと思えるか、という本人の理解次第だ。
だいたいこの夢は年を取るにしたがってレベルが下がっていく。

世界で一つの宝石の所有者になりたい。
これはまず無理だ。
夢みたいなことを言うな、といいたい。

明日7時に起きたい。
これが必ずかなうといえないところが悲しい。
簡単であるから必ずかなうとも限らないのだ。

畑に雑草を生えないようにしたい。
これはかなわない。
雑草が生えないようにはできるが、そうすると野菜も育たない。
そうなると、そこはもう畑ではなくなるのだ。

若い人の歌う歌を覚えたい。
これは努力すればかなうんだろうなと思う。
ただ、次のカラオケ大会までに、といわれると自信がない。

シアワセになりたい。
なれる。
まず、2017年版いぢわるカレンダーを注文しよう。





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ワイルドだなあ
日本語が順に決まっていったなら、文字数が少ない単語ほど重要なはずだ。
だから人体には一文字の部分が多い。
目・歯・血・胃・背・腑・毛などだ。
その理屈で行くと、手は足よりも重視されていなくてはならない。

それにしては手より足の方が細密に表現されているような気がする。
重要なものほどそれにかかわる単語が多い。
例えば、四季のある日本語には気候気象にかんする言葉が多い。
肉食が主な欧米では牛肉の部位が細かく分類されていた。
この理屈から行けば、足よりも手の方が細分化されているはずだ。


しかし、実際は足の方が細かく分類されている。
先日、『袖』に関するネタを書いた時、その位置を説明するのに難儀した。
『足だったらここ』という表し方になってしまう。
実際、ズボンの長さなら説明しやすい。

かかと、くるぶし、すね、ふくらはぎ、ひざ、太もも。
これらの位置を腕で表現できるのはひじぐらいではないか。
そのひじでも、ひざと比べると扱いが薄い。
『ひざの裏』とはいうが『ひじの裏』はいわない。
まあ、ひじの場合、前後ろがはっきりしないからかもしれないが。

ひざは崩せるがひじは崩せない。
ひざを崩して色っぽい座り方をしたとき、
畳に着いた手は、足でいう『かかと』部分に体重がかかっている。
なのにその部分を表す単語はない。

手にもくるぶしに当たるグリグリした関節部がある。
これも『くるぶし』なのか。
つまり『くるぶし』には『手のくるぶし』と『足のくるぶし』があるということなのか。
あるいは、手のくるぶしに当たる部分にちゃんとした名称があるのだが、
それが一般に普及してないだけなのだろうか。

手のふくらはぎに関しては、全く言いようがない。
足だったらふくらはぎの表側は『すね』という。
表裏に名称のある足に対し、全く表現法のない手。
なんという差だろう。

足でいう『太もも』に関しては『二の腕』という表現がある。
でも、この命名は安易すぎるのではないだろうか。
『太もも』は『もも』という単独の名称があるうえに、
『太い』というその形状を現す言葉がついている。
それに引きかえ『二の腕』はすごく『ついで感』がある。


手にも足にも『首』『甲』『指』は同じように存在する。
手には『ひら』があり『手相』があるが、
足には『うら』があり『足つぼ』がある。
が、やはり足有利だ。

先ほど述べた『かかと』のほか、足には『土踏まず』がある。
昔からの名称のほか、最近では『外反母趾』なんてものまで名付けられた。
他にも『魚の目』『水虫』『巻き爪』『ガサガサかかと』なども出てくる。
こんなにも手と足に差があっていいものだろうか。

誰も困ってないからいいのだ。






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何もないに等しい