むかしむかし、サボテンが人と会話できるというニュースが世界を駆け巡った。
電極をつないだサボテンが、刺激に対して反応を示したというのだ。
それはサボテンの感情である、というような研究結果が発表された、んじゃなかったかな?
あまりにも自信がないので、この情報はフェイクの可能性が高いと前置きしておこう。
それにしても、植物に感情はあるのか、という疑問には興味がある。
なぜなら私が野菜を育てているからだ。
例えば、私がポットの苗に水をやるのを忘れていたとしたら、
彼らは嘆き、苦しみ、私のことを呪うのではないだろうか。
ポットの底の穴から細い根を伸ばしているのは、何とか一滴の水をと手を伸ばしているようだ。
収穫はどう思われているのかオクラの収穫を例に考えてみよう。
我々はオクラがいい大きさになったらハサミでちょん切って収穫する。
そのオクラは、そのまま置いておけば、成長して種の鞘となるはずなのだ。
オクラとしては、これが残虐な行為でなくてなんなのか。
子孫を増やそうと作った種が、できるたびに切り取られていくのだ。
葉物、実ものはともかく、芋類や根菜はさらに厳しいのではないか。
だってその収穫は、その個体の死をいみするのだ。
ダイコンは引っこ抜かれたら終わり、ジャガイモは掘り上げられたらジ・エンドだ。
「こんなに育ったよ。おいしく食べてね」なんてのんきなことをいうだろうか。
手厚く育てられる野菜ですらそうなのだから、目の敵にされる雑草たちはどうだろう。
なにしろ草取り、草刈り、草むしり、草抜き、草焼き、草粉砕、すべて手当たり次第の虐殺だ。
野菜は手厚く保護され、その周りの草たちはともかく刈る、刈る、刈る、なるべく根から取る。
まさに根こそぎ、人は彼らをできることなら抹殺したいと思っているのだ。
逃げることのできない彼らにとって、ヒト族のこのふるまいはどのように見えているのだろう。
さて、私は職場でお湯を沸かす。
お昼のオートミールと午後のお茶のためだ。
メモ用紙にのりを塗るための刷毛を洗うのにもお湯を使う。
飲み残したポットのお湯、刷毛を洗った白濁したお湯はどうするか。
私は裏庭に出て、一番目立つ雑草に掛けることにしている。
中心の茎をねらって、なるべくゆっくり、根と茎の接点が煮えるようにかける。
残っているお湯の量が少なければ、それに見合った雑草をチョイスする。
ポットの残り湯は温度も低いし量が少ないからよみがえってくる雑草もあるが、
刷毛を洗ったお湯は表面をのりがコーティングするので致命傷を与える、と思っている。
さてさて、お湯の容器を持って裏庭に出た私、
植物たちからはどのように見られていることだろうか。
「うわ、あいつや」
「その残酷な方法をやめろ!」
「抜くなら抜け!刈るなら刈れ!」
それでもやつらの成長の方が早いのだ。

↑私が草取りをしないと除草剤を撒かれるのだけどクリックしてね。