私の職場は大きなシャッターの奥にある。
店舗を中心に考えれば、このシャッターは搬入口になるだろう。
入って右側にはフォークリフトで積み上げたパレットの在庫。
左側には大きな棚があって、その下には台車を入れられるようになっている。
台車は大小合わせて6台ほどあり、そのすべてが活躍している。
運送屋さんが荷物を持って来たら台車で受け取り仕分けて片づける。
お客さんが商品を取りに来るといえばすぐ車に運べるよう台車に用意しておく。
なのでこの台車置き場の台車はともかく出入りが激しい。
ある日、私が棚の下の台車を使おうと引っぱり出すと、その奥にいやなものがあった。
命のない蜘モの姿だ。
一見して命がないとわかったので「だーーー!」と悲鳴を上げることはなかった。
ただ、台車をもとの位置に戻し、無かったことにしただけだ。
これがいつまでもある。
頻繁に台車が出入りするのだからみんな存在は知っているはずだ。
なのにどうして誰も片づけないかと言えば、台車があるからだ。
わが社の掃除はどうしてもお客さんの来るところが中心になる。
搬入口の掃除は二の次、台車の奥なんて暮れの大掃除まで待つ可能性もある。
となると、自分で片づけなければならなくなるかもしれない。
先ほど『命がない』という表現をしたが、これには二種類ある。
まずは、これがヌケガラであった場合。
だとしてもとても嫌なのだが、やつの衣服だったと思えばなんとか掃除できる。
これが遺体だったとしたら、なんといったらいいのだろう、身が入っている。
できることなら間にちりとりを介していたとしても接触はしたくない。
ただし、物事は大局的に見なくてはいけない。
これが遺体なら、とりあえずここにいた個体はその存在が消滅したことになる。
ヌケガラだったなら、そいつまだ生きて、いや成長して存在するのだ。
ある日、命のない蜘モは無くなっていた。
台車をすべて出して確認したのだから間違いない。
誰かが片づけてくれたのだろうか。
だとしたらヌケガラだったか遺体だったか教えてくれないだろうか。
それによって仕事中の緊張感が変わってくる。
一つ気になるのは、その辺のほこりがそのままだったということだ。
誰かが片づけてくれたのだとしたら、掃除をしたのではなくソレを始末したのだ。
一番ありがたいのは、それが遺体で、誰かが片づけてくれたパターンだ。
それなら職場に平和が訪れる。
ヌケガラを片づけてくれたのだとしたら、やつの存在が気にかかる。
しかし、ほこりが残っていたことで更に心配なパターンが思いついた。
やつがよみがえってどこかに行った可能性だ。
だとしたら、やつはまた現れる。
もっといやなのが、仲間がやってきて遺体を片づけた場合だ。
もっといやなのが、仲間がやってきて介抱した結果、やつが復活した場合だ。
もっといやなのが、蜘モより恐ろしい生物がきて、それをサクサク食べていった場合だ。
もっといやなのが、店長の奥さんがそれをサクサク食べていった場合だ。
もっといやなのが、なぜか意識を失った私がそれをサクサク……
うわーうわーうわー!

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