原発の再稼働を認めない裁判所の判決が出た。
それはいいんだけど、あの巻物は何だ。
裁判所から二人の人が出てきて、判決につきものの巻き物を広げる。
大抵は『勝訴』か『不当判決』のどっちかだ。
しかし今回は二本立て。
一本は『全面勝訴』的な内容だったからまあいいとして、
もう一本の『やっぱり司法は生きていた』ってのは恥ずかしい。
なんかこう「いいこと言おう」って感じがあふれているのだ。
私はああいうのを見て、いつもその前の段階を考えてしまう。
ああ、判決を聞くまでアレともう一つを用意していたんだな。
「勝った時は『やっぱり司法は生きていた』って出しましょうよ」
なんて話をしてたんだろうな。
で、その巻物を作ってたんだなあ。
こう考えるとみっともないと感じてしまう。
『勝訴』と『不当判決』だけなら、この二本の巻き物が完成した時、
二つ並べて気持ちがキリリと引き締まる思いだったろうと思うのだが、
これは、考えて考えて盛り上がった挙句生まれてきたよけいな一言だ。
こうなると、負けたときなんと出すつもりだったのか、気になってしまう。
似たことを思うのが高校野球の選手宣誓だ。
「宣誓!我々選手一同はスポーツマンシップに則り正々堂々と戦うことを誓います」
ほうら、この一行で片付いてしまう。
いつごろからだったか知らないが、これがダラダラ不必要に伸びてきた。
なんと今年の春の大会では和歌が詠まれていた。
宣誓に和歌なんて入れるもんじゃないし、和歌なんてあんなに大きな声で詠む物ではない。
こうなると考えてしまうのは、ホントにあの選手が考えたのかってことだ。
野球部の顧問と校長教頭と、国語の先生や弁論部の顧問まで集まっているのが目に浮かぶ。
ああしましょう、こうしましょう、こんなのも入れろ、それもつけちゃえ。
こうやって、長い長い宣誓文が出来上がる。
仮に選手自身が考えたのだとして、このメンバーが添削したのは間違いないだろう。
で、野球の練習もそっちのけでこれを覚える坊主頭。
言わない美徳、というものがあるのではないか。
短い言葉だからこそ、心にヒシと響くのではないか。
言葉が増えれば増えるほど、ヒシとくるものがぼやけてしまう。
まるで薄めすぎたカルピスだ。
「感動を与える」なんてのはこっちが感じることなのだ。
ラーメン屋の壁には、いかにいい材料を使ってどんなに手間をかけてダシを取っているか、
ちょっとしたその辺の観光案内ぐらいの長文が張り付けてある。
アレを言ってしまってはいかんのだ。
「このラーメンうまいねえ」
「へへっ、ちょっと手間をかけてやして」
ってな風に、まずは味だけで勝負
訊かれたらちょっとだけ開陳するのだ。
だいたい最近の風潮としてなんでもかんでもベラベラベラベラとあーだこーだ言って、
内容がたいしてありもしないのに声高に早口でいえば伝わるかのごとく、
他人にとってはどうでもいいようなことを一家言あるようなつもりで滔々と語りたて、
周りが煙たく思って言うのを気付きもせずにともかくしつこくくりかえし、
実は何度も同じことをしかもどこかできいたことがあるようなのばっかりで、
それを朝っぱらから毎日毎日性懲りもなく延々と続けてしまってすいません。

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