私はおっさんであるにも関わらず、ちょくちょくファンシーなお店を覗く。
一人では恥ずかしいが、ちづるとお出かけのときは便乗してスプーンを物色している。
どうやらファンシーなお店と言うのはジャンルの幅がかなり広いようだ。
乙女チックな文房具やアクセサリー主体のお店から、
活動派奥様のための、キッチン、インテリア、ガーデニング狙いのお店まで様々だ。
もちろん、店の方向性の違いだけでなく、商店としてのレベルの差もある。
値段はもちろん、品ぞろえ、接客、陳列のセンス。
中でも重要なのは、商品の扱いだと思う。
先日、あるお店でフォークを買った。
フォーク自体はとても気にいっているのだが、ひとつ不愉快な点がある。
正札がちゃんとはがれず、粘着物質がフォークに残ってしまったのだ。
それもヘッド部分の裏側に。
ガムテープを使って何度も取ろうと試みたが、いまだに少し残っている。
私は食事には使わないが、一応は口に入るものだ。
薬品などを使うのは気が進まない。
どうしてこんな重要な部分にべったりと正札を貼ったのか。
そのあたりをうまくやっていた店のやり方を思い返す。
あるお店では、正札を半分に折って接着面を減らし、柄の部分に貼ってあった。
清算のときに店員さんがきれいにはがしてくれるお店もあった。
ひとつひとつがラッピングされているところもあった。
みなそれぞれに工夫されている。
しかし、果たしてそれが正解なのか。
『ファンシー』という言葉は『経済』からかけ離れている。
我々おっさんが慣れ親しんでいる店とは理屈が違うのだ。
なぜかファンシーなお店の正札は小さい。
われわれの疲れ果てた目にはとても見にくい。
前述したフォークに貼ってあった大きな正札、実はこれが我々にはありがたかった。
ただし、これはファンシー度が低いということなのかもしれない。
ラッピングされているお店では、商品自体はとても美しい。
でも、触ることができない。
ファンシーなお店というのは、若い女の子たちがワラワラとやってきて、
アラカワイイ、コレステキ、と触りまくるものだ。
ラッピングしてあることが最善だとは言いにくい。
ある店では見本が一揃え展示されていて、そちらに値段がついていた。
商品に正札はなく、店員さんが値段を覚えているのだろう。
これはレベル的に高い気がする。
だが、私たちおっさんのレベルは低い。
気にいったスプーンを手にとって、レジにたどり着くまで、その値段を覚えていられない。
値段を覚えていても、今持っている商品がその値段だったか自信がない。
さらに、本当に店員さんが間違いなく値段を覚えているか信用できない。
なので、実際にお金を払うまでびくびくし続けているのだ。
ファンシーがなによりやっかいなのは、売り場のまとまりがないことだ。
こちらでカトラリー売り場を見つけたと思ったら、
あちらのタンブラーにもスプーンが立ててある。
お椀と一緒に木製スプーンが展示されていると思ったら、
キッチンディスプレイのお皿にもナイフフォークがそろっている。
われわれはもうパニックだ。
そりゃあ、おっさんはファンシーとは異世界の住人かもしれない。
でも、ホームセンターと比べたらはるかに高価なスプーンを買ったりすることもあるのだ。
柄付きセロテープやペンギン型クリップしか買わない子供よりは上得意ではないか。
もう少しおっさんに歩み寄ってもいいのではないか。
まず、売り場は商品のジャンル別に分けてもらいたい。
それから、売り場をめぐる順路を決めてもらいたい。
通路にしゃがんで物色できるだけのスペースを設けてもらいたい。
そしてこの『ファンシー』という言葉、使い方が間違っていないか教えてもらいたい。

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