私は、いや、人はおまけが大好きだ。
おまけがなにか、ということより、おまけがあるかないかが重要だ。
おまけさえ付いていれば、その商品が何であるかは関係ない。
最終的にはお金を出しておまけを買ってしまうほどおまけには魅力がある。
子供のころはグリコやポンカン飴のおまけをいっぱい集めていた。
ポンカン飴は、オブラートで巻いたグミ状のもので、
当時ですらおいしくなかったが、プラスティックの小さな車がおまけだった。
これが男子にはたまらなく、パトカーなんぞ出たら逮捕されるほど喜んだものだ。
グリコと言えばおまけの代名詞だが、これには大きいバージョンがあった。
ちょいとしたひもがついていて、手提げ風になっていた。
もちろんおまけも大きいから、のどから手がヒジまで出るほど欲しかったが、
なかなか買ってはもらえなかった。
しかも、おまけが何だったかは覚えていない。
これこそが、おまけの内容より存在が大切である証拠だ。
子供のころは、おまけではない付属品もおまけだと思っていた。
たとえば、洗剤の計量スプーンや蚊取り線香立て。
一時期、捨てるときの紙がついてるガムがあった。
この紙が、メモのようにちゃんと糊づけしてあって感動したものだ。
ガムを捨てるのには使わず、大切に保存して、結局使い道がなくて捨てた。
たいてい、宝物というのは使い道はないものなのだ。
さて、最近やたら見かけるおまけがある。

そう、カラビナだ。
なんだかやたらとなんにでもついてるような気がする。
この写真のものは、全部なにかについていて、ジャマで取ったものだ。
ベルトにつけるポーチだとか、アウトドア用のナイフなどにぶら下がっていた。
青くて小さいのは、百円でたたき売りになっていたせんすについていた。
果たしてこれは必要なのだろうか。
確かに、物によってはついていたら便利だろう。
あればなにかに使える感じもする。
ということは、商品の一部なのだろうか。
何でもかんでも「おまけですよー」と押しつけがましい企業たちが、
前面に押し出して来ないところもおまけっぽくない。
それをつけるだけでどれだけかの内職代も支払っているだろうに。
カラビナとは本来、登山用具のひとつだ。
しかし「登山には使えません」と注意書きされていたものもあった。
私もこれらを登山にだけは使いたくないと思っているのだが、
本来の使用法ができないということは、お飾りということだ。
おまけだか商品だか飾りだか、なんともあいまいな立場のものだ。
ただ、使い道ははっきりしている。
なにかをなにかにつけるために使う。
「カラビナがついている」と言ったが、カラビナはなにかをつけるためのものだ。
カバンにかわいいキャラクターをつける。
腰に仕事道具をつける。
車のキーにキーホルダーをつける。
いうなれば接続詞のようなものだ。
そう、私の大好きな接続詞、
「もちろん」「しかも」「たとえば」「さて」「しかし」「ただ」「で」
これらと同じものなのだ。
私が好きなはずだ。
で、本体を捨ててもこれだけ取って保存しているところを見ると、
宝物だと思っているのかもしれない。

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