お金。
それは魔物。
誕生以来、常に人心を惑わせてきた。
そして、私の身の回りにも惑わされている男が・・・
「わーい、小銭で千円あった~」
O川である。
アホか。
それの何が嬉しいのか。
O川説はこうだ。
小銭というのはお札を崩した時にできる端数だ。
それがお札の額面以上にあった。
つまり、あると思っていなかったお札一枚分の額を持っていたのだからうれしい。
モノは考えようだ。
私はむしろ腹が立つ。
この小銭をお札で持っていれば、
財布の中はスッキリしてたし、何より軽かったはずだ。
と考える。
一応上司Tの意見も聞いてみた。
「ワシなら両替する」
人の質問を理解せずに好きなことを言うこの上司に腹が立つ。
小銭というものの存在は難しい。
たくさんあるのはイヤなのだが、くれるならどれだけでも欲しい。
ジャマだと思っても、人にはあげたくない。
私は小銭が嫌いだ、という話をしたいのだが、
それならよこせ、なんて言われると困ってしまう。
なので、とりあえず損得抜きで続けよう。
私は小銭が嫌いだ。
パッと見でいくらあるかわからない。
百円玉だと思っていて五十円玉だった時のやり場のない怒りよ。
買い物をした時、一円足りない時の歯がゆさよ。
なので私はしょっちゅう小銭を数えている。
チャンスがあったらさっと使ってしまいたいのだ。
そのためには金額を把握している必要がある。
しかし、金額は流動的で記憶は浮遊的なのだ。
ずっと昔、小銭を分類できる財布を持ったことがあった。
百円、五十円、十円を硬貨ごとに枠にこっちりはめられるようになっていた。
確かに支払いのときには便利だった。
しかし、もらったおつりを分類して、枠にはめていくのがなんだか貧乏臭い。
店でそんなことをするわけにはいかないし、
あとで、ということなら結局ごっちゃで持つことになる。
結局その財布はすぐにやめてしまった。
今日は買い物に行かなければならなかった。
明日のお昼のインスタントみそ汁がなくなったのだ。
行くなら納豆もバナナもモヤシも買いたい。
他にもみれば欲しくなるものがあるだろう。
財布にお札は二千円。
これは小銭まで把握してないと心配だ。
スーパーの駐車場で数えた。
777円。
なんだかうれしかった。

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