身体的特徴の中で、顔の造作の次に私が自慢できるのが視力だ。
腕時計をしていなくても、移動しながら辺りを見回せばたいてい時計ぐらいはどこかに見つけられる。
車だったら、信号などで停車したとき、前の車の時計が見える。
私の車は少し車高が高いので、相手が普通車で、障害物さえなかったら楽々だ。
先日、会社帰りに踏み切りでとめられたとき、前の車のカーナビが目に入った。
わざわざ覗いたわけではないが、もう暗くなっていたので、シルエットの中に浮かんで見えたのだ。
それが平面地図的カーナビでなくて、風景のとおりに見えるタイプのカーナビだった。
立体感があると言うか、遠近感があると言うか、バーチャルな感じ。
なにしろ、私に見えている実際の風景が、前の車の小さな画面に簡素化されて写っているのだ。
その画面のすぐ前は踏み切りなのだ。
まさか・・・このあとこの画面に電車は通るのか。
ふと、そんなことを思ってしまった。
そんなはずはない。
第一、そんな必要がない。
でもどうだろう、文明は不必要な方に進歩してきたのではないか。
私の知っている「最新」と、ほんとうの「最新」では「最新度」が違う。
だいたい「最新」が、私の耳に入るのは、「最新」がちょっと「中古」になってからなのだ。
ケータイもカーナビもプレステもウデドケイも持たない私と違って、前の車の運転手は新物好きのようだ。
ふふふ、踏み切りでこんなにわくわくしたことはない。
そのとき、前の車の後ろの席で(えい、ややこしい)今まで見えていなかった子供が立ち上がった。
うわー、コラー、ジャマだー、座れー!
前の車の持ち主は、何もかもを手に入れた立派な人だと思っていた。
生活のすべてが最新の設備で彩られているのだと思っていた。
なのにヤツはチャイルドシートすら備えてなかったのだ。
まったく、見損なったぜ。
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